法哲学的寓話

ラデオン・ゲートの殺人鬼 1


「コムゼー&アシュトレー法律事務所」のプレートを見て、アシュトレーは扉を開いた。 いつも乗る地下鉄。いつも歩く道。いつも入る玄関。いつも乗るエレベータ。間違いようのない道筋を通ってたどり着くオフィスに入る前にも、彼は必ずプレートを確認する。

「やあ、わが社のホープのお出ましだな」
部屋に入ったアシュトレーを陽気な声が出迎えた。共同法律事務所で「わが社」も「ホープ」もないものだが、コムゼーはゆくゆくはそういう方向に持っていきたいらしい。弁護士としての腕も悪くはないが、彼の興味と才覚は法律問題以外に向いていた。

「ずいぶん早いな。何かあったのか」
「何かあったのかはないだろう。いやはや「高尚なお方」はこれだから困る」
笑いながらコムゼーは新聞を放ってよこした。

「知らないなら、まあ読んでみてくれ」
わが国最大の発行部数を誇るリーゼル・タイムズだった。アシュトレーは気づかれない程度に軽く眉を寄せた。もちろん彼は事務所に来る前にざっと目を通していた。一面トップは「ラデオン・ゲートの殺人鬼」。一面だけではない。紙面の多くが関連記事で埋め尽くされ、さながらこの国では他に重要なことが何も起こらなかったかのようだ。昨日は財務省不祥事に関する省内調査の報告が行なわれたというのに(大事件にあわせて都合の悪い報告を行なうのはそれを見越した慣例なのだが)。

「なんのつもりだ? わが国の新聞はみな大衆紙だってまた言いたいのか?」
そういいながらアシュトレーは忙しく頭を働かせていた。この事件の陰に隠れたわれわれにとっての重要問題は何だ? 財務省問題は関係ない。金になりそうな事件があったか?

コムゼーはにやにや笑っている。コイツめ、人をやりこめる機会は逃さないヤツだ。何か見落としていたか?

「殺人鬼こそ、もっとも人権が保障されなければならない人だな。ぜひ弁護を引き受けよう」
こう冗談でまぎらせながら、彼はエコノミクス紙の記事を思い返していた。何か金になりそうなこと‥‥。

コムゼーはまじめくさってうなずいた。
「この件での国選弁護の打診が来ている。ぜひやってもらいたい」

なんだ、そいうオチか。大笑いしようとして、コムゼーの目が笑っていないことに気づいた。まさか、本気か?

「イデちゃんの仕事だろうが、こんなのは」
「イデちゃん」は、日本から来た井出孫一氏のことではもちろんない。これは、アシュトレーの造語で、イデオロギーに凝り固まったオタクたちのことだ。左であれ、右であれ、人権であれ、官権であれ、なんらかの「信念や正義」に取り憑かれてマトモな感覚を失ったやつらである。ただでさえ刑事事件は金にならない。まして殺人鬼の弁護なんかしたら、金づるの客を逃がす恐れさえある。

「普通ならな」
コムゼーは静かに言った。どうやらウラがあるようだ。



次へ





 | トップ  |