●閾値(しきいち)問題 閾値とは、一般には、なんらかの反応を惹き起こすために必要な最小のエネルギー値を言う。価値判断の問題では、「〜である」と評価する最低線のことである。 閾値問題は、その閾値をどこに設定するかの問題である。評価をめぐる議論においてこのことを意識しておかないと、無意味な主観のぶつけ合いになってしまう。たとえば、ある本がよく売れたかどうかは、「何冊以上売れた場合によく売れたと評価するか」という閾値をどう設定しているかを明確にせずにはまともな議論にならない。「あれはよく売れた」「いや売れていない」と押し問答をするだけでは不毛である。 ●殺仏殺祖(自由その2) 逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。 臨済宗の開祖・臨済のことばである。仏、始祖、聖者、父母、親族を殺して、はじめて悟りを開くことができる。およそそういう意味だ。 この解釈はさまざまである。常識的には、(偽の)権威や恩愛に惑わされてはいけない、ということだと考えるようだ。 つまらない。この言葉は、文字通りに受け取って初めて意味がある。これについては、後日(たぶん新書の中で)取り上げることにしよう。 ●性善(プロレゴメナ) 善と悪について語る前に一つはっきりさせておきたいことがある。
善も悪も、しょせんは人間が決めたことである。「客観的に」存在するものではない。
何が善か、何が悪か。絶対的な基準はない。そしてたぶんそれはさして重要ではない。 わたしが面白いと思うのは、人間が自らを悪としうる存在であることだ。 ●オッカムのカミソリ(Ockham's Razor)
"不必要に存在を増加させてはならない"
「ベッカムよりオッカム」ワールドカップの間中、繰り返し頭に浮かんできたフレーズだ。オッカムは中世の神学者。唯名論者として知られる。オッカムのカミソリはもちろんモヒカンを剃るためのものではない。不確かな概念、幻想を切り捨てるためのものだ。 Sword of Thought -- 思想には刃がある。難解な言葉で読者も自分も混乱させているような「哲学」はまがい物と疑ったほうがいい。 ●デモクラシー・リテラシー
ハイオン国は、民主主義国家であると宣言している。確かに、ハイオン国には議会があり、定期的に選挙が行なわれている。投票率は極めて高い。 これで、民主主義国家といえるだろうか。 ところ変わって、東方の島国。この国も民主主義国だということになっている。国民は、義務教育の中で民主主義はよいものだと教えられる。ところが、民主主義の中味についてはよく分かっていない。「平和で豊かだから民主主義だ」「民主主義とは多数決だ」大学生になってもそんな程度のことしか言えない者は珍しくない。議員に「誰がなっても同じだ」と言って投票に行かない者も多く、投票率は低い。自分たちが主権者であり、政治を動かしているという実感がない。社会問題を解決するのは市民の責任であるという自覚がない。 さて、この国は上のハイオン国とどれほど違うだろう。 実のところ、日本は民主主義の国か、というのは大して重要な問題ではない。議会があって選挙をしているという形式的な条件を満たしているのは明らかだ。問われるべきは、どれだけ民主的かという程度だろう。 民主主義社会の一員としての必須の素養を、デモクラシー・リテラシーとわたしは呼んでいる。リテラシーは、元来「読み書き能力」のことである。どんな仕事をするにしたって、読み書きができなければ話にならない。民主主義社会で生きて行く上で、これが身についていなければ、読み書きができないのと同じ。デモクラシー・リテラシーはそういう能力のことだ。 あなたは、とにもかくにも政治的権利を持っている。賢く使うことも、愚かに使うことも、もちろん、全く使わないこともできる。ただし、愚かに使えば、自分が損をするというだけのことではない。愚かにふるわれた力は、人を傷つけるかもしれない。とりわけ、あなたよりも立場が弱く、十分な権利行使や主張ができない人たちを。 もしあなたが、民主主義社会の一員として、自らの望む社会を作り上げていきたいと思うなら、少なくとも、間違った方向へ行ってほしくないと思うなら、そして、すべての人のためによりよい未来を手に入れたいと思うなら、デモクラシー・リテラシーが必要だ。法哲学は、それを養う上で必ず役に立つだろう。 ●自由 (その1) あなたは今、自由だろうか。 自由を「束縛されていない状態」と考えるなら、答えは単純に出るように見える。だが、こんな場合を考えるとどうだろうか。 明日は試験。勉強しなきゃヤバイ。よし、この問題を解いてみよう、と決心。でもつい見たい番組のテーマ音楽が聞こえてきて、居間へテレビを見に行ってしまった。 さて、こういうとき、あなたは「自由」だったのだろうか。他人から強制されていなかったとしても、「欲望の奴隷」になってしまっていたのではないだろうか。 そんなものは自由ではない、と考えたのはカント。ただ欲望(カントはこの文脈では傾向性と呼んだ)のままに動くのは自由ではない。理性によって見いだされた普遍的(道徳)法則に従うことが自由である。 物理学でいう「自由落下」は、ある意味、そういう自由の姿を皮肉に描いたものに見えるかもしれない。これは、重力以外の力の影響を受けずに落下している状態だ。ビルのてっぺんから飛び降りたら、あなたは自由落下。空気がなければさらに自由。もちろん地面に到達するまでの間だけのことだけれど。 法則に従うだけなんて、ずいぶん不自由な感じがする。かといって、欲望を抑えられないのも自由だとは思えない。 孔子のいう「心ノ欲スル所ニ従ツテ、矩ヲ踰エズ」(自分の思い通りに振る舞っていても、法則に違反するようなことはない)という境地を考えると、両者の幸福な一致という状態はぼんやりと想像できるような気もする。でも、どうやったらそんな気持ちになれる? ムリなんじゃない、ふつう。 法哲学では、ずいぶん違った観点から自由を取り扱っている。 *1 「だった」と書いたが、今はもう解決されたというわけではない。単に話題にならなくなったのだ。 ●抽象的無意味 小林和之と木村拓哉は、同じ顔をしている。 上の文は、神に誓って真実である。だが、それを知ったインパクトは、わたしの顔を見たことがあるかどうかでずいぶん違うだろう。わたしの顔を知らない人は、蛭子能収でも坂田利夫でも、あなたが木村拓哉とは全く違うと思う顔で考えてくれるといい。 目が二つ、鼻が一つ、口が一つ、耳が二つという点で、二人の顔は全く同じである。このほかにも数えきれないほど同一の点を指摘することができる。 つまり、抽象度を上げすぎると、何でも同じになっちゃうっていうこと。わたしはこういうのを「抽象的無意味」と言っている。 法哲学の論文とか読んでいると、この「抽象的無意味」を感じることがよくあった。ひょっとしたら本人も気づかないうちに、観念の空回りが起こっている。具体的な問題に適用して考えないと、意味を見失ってしまうのだ。「差異を生じない相違は、相違ではない」とは、Mr.スポック*1がときおり口にしていたことばだったと思うけれど、気をつけておくべきことだと思う。 で、具体的にはどうなの? それで世界がどう変わるの?
抽象的理論が悪いと言うつもりはない*2。 *1 いにしえのTVドラマ「宇宙大作戦」(STAR TREK と言ったほうがいまは通りがいいのかな)の登場人物。わたしはいろんな人からスポックと言われてきたので、ちょっと親近感がある。なお、わたしの「未来は値するか」は、「コバヤシ丸問題」へのわたしなりの回答である、と言っても通じる人(そして、Mr.スポックが、彼なりの回答だと言ったことを思い浮かべてくれる人)はほとんどいないだろうな。 *2 わたしの論文もじゅうぶん抽象的だと思う。わたしは具体的な問題に取組み、よりよい処理を可能にするために抽象的な理論を組み立てている。
項目が四つでも用語集? 順次追加していきますのでその点はご容赦を。 |
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