「Act 6 彼女に見せられる法哲学」は、"専門家=男性、素人=女性"というジェンダー・ステレオタイプ (性別に関する固定観念) を前提にしているのではないでしょうか


 そうではありません。でも、ジェンダー・ステレオタイプに敏感な方にお読みいただいていることをとてもうれしく思います。
 連載の "Act6" が 「彼女に見せられる法哲学」になったのは、知り合いの 大学院生が「たまたま」男性であり、連れてきた恋人が「たまたま」女性だっ たという歴史的偶然にもとづいています。
 もしいっしょに飲みに行った大学院生が女性で、男性の恋人を連れてきてい たら、タイトルは「彼氏に見せられる法哲学」になっていたでしょう。ですか ら、「専門家の中には女性がいる」というという可能性に配慮しなかったわけ ではありません。そのことは、次の部分で示したつもりでした。

恋人には自分のことを分かってほしい。そして、自分の中で、自分の選んだ仕 事が大事だとしたら、自分の仕事の意味をどうしたら恋人に分かってもらえる んだろうか。
 ここは、飲み会で実際にあったことから一般化している部分です。この部分では、性別を特定しない「恋人」がふさわしく「彼女」や「彼氏」であってはなりませんでした。
 ただ、実際にあったことをありのままに書いたことが、筆者のステレオタイプに基づいていないとしても、それが社会にあるステレオタイプの強化につながるのではないかということを考えなかったわけではありません。
 そのため、逆に、性別を入れ替えてしまうことも検討しました。大学院生の「彼女」が「彼」を連れてきたという設定にするわけです。
 でも、結局そうしませんでした。「ウソはいやだ」というだけではありません。わたしは、「彼」も「彼女」も実際に知っています。ここで、事実を大義名分のために変えてしまうことは、なんだか裏切りのように感じました。いやもっと単純に、いい雰囲気のカップルのことをそのまま書きたかったというべきでしょうか。
 わたしは、常々「論文は理屈の勝負だ。"気持ち"に頼っているようでは理論家として失格である」と公言していますが、それは"気持ち"に意味がないということではありません。上の言葉には、公言しない後半(ナイショ)があるのです。
 なお、実際は"気持ち"の代わりに他の言葉をいれることのほうが多いです。"知識"とか"権威"とか。



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